天気の子、須賀
天気の子、見ましたか。7月公開のこの映画、やっと見ました。感想を真面目に書くぞ、ということで。以下、作品の内容に触れます。
最も印象に残ったカット、実はファーストカットでした。新海作品でおなじみのドコモタワーがそびえたつ新宿の街並みから病室の窓に反射する陽菜へと移っていく1ショット。力強いね。この1カットで、あぁ新海作品だな、と思ってしまうほどに新海誠は新宿を私物化している。許せねえよな。ちなみにカメラは病室の窓をすり抜けている。ワンショットで屋外から屋内へ。アニメだからこそできる表現。この辺にも唸ってしまった。
まぁ画の話はその辺にしといて内容です。巷では00年代のエロゲとかセカイ系作品を引き合いに出したりいろいろ言われていますね。諸々すっ飛ばして須賀に注目したい。
劇中で須賀は二度、大人として少女とセカイの選択を迫られます。一度目は帆高の誘拐容疑をかけられたとき。帆高(ひいては陽菜)を選ぶか、娘やその娘と暮らす自身を選ぶか迫られ、後者(セカイ)を選びます。その直後、夏美との会話で「たかが一人の犠牲で何万人が助かるなら、人柱だって歓迎だ」と発言することからも明らかです。
二度目はクライマックス直前、陽菜のもとに行きたい帆高と追ってくる警察。彼は帆高を選びます。「お前らが、帆高に触れるな!」と、刑事にとびかかり、帆高を陽菜のもとへと向かわせる。今度は少女を選んだ。帆高と同様、かつて東京に家出してきて、大恋愛をした須賀。彼もまた、かつてきっと少女と(彼なりの)セカイを天秤にかけ少女を選んだわけだ。昔は帆高みたいなやつだったんだな。そもそも夏美に言わせれば「圭ちゃん(須賀)と帆高君って似てるよね」ってわけですし。
まぁ、そんな風に、幾度となくセカイと少女を天秤にかけた須賀ですが、物語ラストで陽菜を選んびセカイの形を決定的に変えてしまった帆高にこう言い放ちます。「もともとセカイは狂っている」。お前の選択がセカイを狂わせたんじゃない。「自惚れるな」、と。
このセリフにより、帆高のセカイをかけた選択が、みんながよく迫られるごく一般的な選択へと落ちます。帆高はセカイと少女を天秤にかける重大な決断をしたかもしれないけど、実はそんな大層なもんじゃないぞ、と。そもそも須賀自身、すでにセカイか少女かの選択を幾度も経験しているわけだ。そんな須賀が「自惚れるな」というわけですよ。いくつかの感想記事でも言及されていますが、既存のセカイ系エンドの否定です。
しびれるね~~~。セカイか少女か、その命題に新たな解が生まれました。だって須賀がいるんだもん。少女を選んでセカイが終わっちゃうならとうの昔に須賀が終わらせてんのよ。終わってないから須賀は大人になってるし萌花が生まれてるわけ。んでもって、帆高も将来、須賀みたいになっていくのかもね。
セカイと少女のどちらかを救うか、そんな重大にみえる選択は、実はありふれた普遍のもの。今この瞬間にも行われているかもしれないけど、セカイはかなり頑健で、彼らの選択一つでぶっ壊れたりはしない、「自惚れるな」。
「天気の子」は、そんな風にセカイ系に対する新たな幕引きを提示した作品のように感じました。